田中角栄(たなか かくえい)氏は、戦後の日本政治に多大な影響を与えた伝説的な政治家です。
「今太閤(いまたいこう)」や「昭和の怪物」とも称され、数々の政策を打ち出したその経歴には驚きが詰まっています。
この記事では、田中角栄の生い立ちから政界引退までをわかりやすくご紹介します。
田中角栄の出身地と家族構成|新潟県出身の苦労人
田中角栄氏は1918年、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)で生まれました。
父は農業と建設業を営んでいましたが、角栄が幼い頃に家業が傾き、非常に貧しい幼少期を過ごします。
この苦労が、後の“庶民感覚を持つ政治家”としての礎となったとも言われています。
学歴は中卒?田中角栄の独学力と通信教育の経歴
角栄氏は中学校を卒業後、陸軍工兵学校に入学しましたが、家計の事情で早くから社会に出ます。
その後は東京で建築技術を学び、中央工学校の通信教育を修了。
大学卒のエリートが多い政界において、中卒から這い上がった異色の存在でした。
最年少で大臣就任!田中角栄の政界での急成長
1947年に衆議院議員に初当選し、1957年にはわずか39歳で郵政大臣に就任。
これは当時の戦後最年少大臣であり、「角栄旋風」と呼ばれるほどの注目を集めました。
その後も蔵相、大蔵大臣、建設大臣などを歴任し、政界の中枢へと駆け上がります。
日中国交正常化の立役者|歴史に名を残す外交成果
1972年には第64代内閣総理大臣に就任。
最大の功績は、同年の日中国交正常化です。
長年断絶していた中国との外交関係を回復させ、日本の国際的地位向上に大きく貢献しました。
ロッキード事件と政界引退|田中角栄の晩年
1976年、アメリカの航空機会社による賄賂事件「ロッキード事件」で逮捕・起訴され、日本中に衝撃が走りました。
一度は議員辞職しましたが、その後も“キングメーカー”として自民党内に大きな影響力を持ち続けました。
1993年に脳梗塞で倒れ、1994年に死去。享年75歳でした。
田中角栄の名言と評価|今なお語り継がれるリーダー像
「政治は数、数は力、力は金」といった名言は、政治のリアルを突いたものとして今も語り継がれています。
“カネとコネ”のイメージがつきまとう一方で、地方のインフラ整備を強力に進めた功績から、地元では神のような存在と称されることもあります。
まとめ|田中角栄の経歴は日本政治の縮図だった
田中角栄氏の生涯は、貧困から這い上がった“成り上がり型政治家”の代表例とも言えます。
その経歴は日本の高度経済成長と重なり、功罪両面にわたって語られる存在です。
今なお語られる理由は、その“人間味”と“実行力”にあるのかもしれません。
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